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66 2000年9月18日

PDP-10(2)ビル・ゲイツ
 
 

次は、パソコンである。パソコンの元祖はアルテアである。

現在のマイクロソフトは、ビル・ゲイツとポール・アレンが、アルテア用のベーシックを書いたのが始まりである。
 

つい先日、病院の待合室で読んだ「日経なんとか」にボール・アレンが出てきたが、彼は今ではいっちょまえの投資家なんだそうである。その記事でアルテアのことがまったく不正確に紹介されていた。「アルテア社の8080PCというマシン」・・・とかいう、これもうろ覚えだから人のことは言えないが、どうも翻訳の段階での誤訳というよりは、原文の英語記事からして間違えているんじゃないかと思う内容であった。以前にもビル・ゲイツが「ベーシック言語を開発した」みたいな新聞記事を読んだことがあるが、「ベーシック言語」をアルテアに「移植した」が正しい表現であろう。
 

今回は、マイクロソフト物語でもあるのではあるが、PDP-10のその2なのである。
 

で、安易に「パソコン創世記」からの大引用大会なのである。もう前回の紹介でダウンロードして読んだよ、という方には面白くない内容である。

今回の引用で興味を引かれた方は、ぜひ、TBSブリタニカ本を買って読んでいただきたい。2500円でござるよ。。。
 
 

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私のコンピュータの初体験はNEC98のMS-DOSである。人によっては、それが88ベーシックであったり、MSXの8ビットマシンでったり、マックであったり、ウインドウズであったりするのであろう。

そしてビル・ゲイツの初体験の相手が。。。。。。
 
 
 
 


 ポール・アレンとビル・ゲイツを結びつけたのは、二人が通ったシアトルのレイクサイドスクールで始まったコンピューターの授業だった。
 
  私立の名門男子校のレイクサイドスクールは、一九六八年春、いち早くコンピューター教育に取り組むことを決めた。だが数百万ドルはする大型コンピューターはとても買えず、DECが低価格を武器に攻勢をかけていた小型のミニコンピューターにも手は届かなかった。
 
  そこで学校はDECのPDP―10を持っていたゼネラルエレクトリックと交渉し、使用時間に応じて料金を支払う契約を結んだ。もともとはテレックス用の通信端末として開発されたテレタイプが購入され、レイクサイドスクールに設けられたコンピュータールームに置かれた。
 
  本来、電話回線で文書を送るテレックスの端末として開発されたテレタイプには、入出力と通信の機能が備わっていた。文書を送る際はまず、テレタイプに組み込まれた電動タイプから入力した文字をコードに変えて、紙テープに打ち出してやる。このテープをあらためて読みとり装置にかけると、テレタイプは情報を音に変えて電話回線に送り出す。送られてきた信号は相手方でいったん紙テープに打ち出され、これを読みとると逆に電動タイプライターが文字に再現してくれる。
 
  こうした機能を持つテレタイプは、コンピューターの端末装置としても利用されるようになった。レイクサイドスクールでは、テレタイプは電話回線を通してゼネラルエレクトリックのPDP―10に接続され、タイム・シェアリング・システムによって割り振られたマシンの処理能力を同校から利用できるようになった。

ビル・ゲイツ、ポール・アレンの初体験は。。。。PDP-10なのであった!

「現在のパソコン」の三種の神器は、キーボードにマウスにディスプレイであろうが、「コンピューター」にとっては別になくてもいいものである。

もちろん「入力装置」と「出力装置」は必須であるが(無いと情報のやり取りができない。。。)それが現在当たり前になっている、キーボードやマウスやディスプレイである必要はないのである。

IBMの大型汎用機時代は、入力はパンチカード、出力はプリンターであったようである。。って生半可な推測だから信用しないよ〜に。

で、DECの時代は。。というと、これもよくわかっていないのだが、上で読むところによると、「テレタイプ」という代物である。

そういえば、昔NHKの「新・電子立国」でやってたな〜と思い出される人もいらっしゃるであろう。。。
 

ビル・ゲイツの「初体験の相手がPDP-10」って言っても、ビル・ゲイツ少年は、あのでかい画像のマシンの前に座って、そのマシンを操作したのではないのである。
 

彼は、学校においてある「テレタイプ」と呼ばれる電動タイプライターの前に座って、電話線ごしにPDP-10を「遠隔操作」していたのであった。。。。

なお、タイムシェアリングシステムとは、
 
 
 
 

 コンピューターの歴史の中でまず目標とされたのは、きわめて高くつくマシンの処理能力という資産を、全体としていかにむだなく活用しきるかという点だった。大型コンピューターでは、仕事の手順やデータを紙のカードに穴を開けて表現し、これを機械に読ませて処理を行わせるパンチ・カード・システムが広く使われた。ただし作業ごとのカードの束は、いつも順番待ちで機械の前にたまるのが常だった。こうした慢性的な作業過多状態にあって最大限の効率を実現するために、スケジュールの管理や作業の切り替えまでコンピューターにやらせようとする試みが生まれた。この仕事はどの程度急ぐのか、どれくらい作業時間を必要とするかをカードに書き添えてコンピューターにどんどん仕事を渡し、高価な機械にはむだなく働き続けてもらおうとするバッチ処理と呼ばれるこうした使い方によって、組織全体から見た処理能力の利用効率は高まった。ただし使っている側の一人ひとりは、作業の進め方を機械の都合に全面的に合わさざるをえなかった。数時間で処理した結果が出てくることもあれば、何日か待たされることもあった。
 
 機械の利用効率を最優先したこうした使い方が一般化する中で、やがてコンピューターの世界にも人間の使い勝手を優先しようとする試みが現われた。機械の処理能力を巧妙に小分けして、まるで一人の人間が高価なコンピューターを独占しているような使い勝手を実現しようというのがその目標だった。コンピューターで処理できる情報は当初、数値や文字といったごく単純な構造のものに限られていた。ことこうした単純な形の情報に限れば、コンピューターの処理スピードは人間に比べて桁違いに速く、人間にはほんの一瞬と思えるあいだにかなりの作業が進んでしまう。そこでまず、数値や文字を扱う機械の処理能力を、ごく短い時間ごとに切り分けてやる。そして最初の小さな時間の枠を利用して、一人目のユーザーの求めてくる仕事をこなす。時間枠を使いきれば、二人目のユーザーの要求に応じる。こうしてすべてのユーザーに小さな時間枠を与え終わったら、コンピューターはもう一度最初のユーザーに向き直り、もう一度一人ひとりの要求を時間枠の範囲で進めていく。こうした時間の切り分けをきわめて短い時間で行えば、単純なものの処理では圧倒的にコンピューターよりも遅い人間は、あたかも自分一人でコンピューターを占有しているような感覚が味わえた。
 

 

ということで、これは「マルチ・タスク」「マルチ・ユーザ」である。これはUNIXの特徴である。パソコン系のOSは「マルチ・ユーザ」にはなっていないが、考えれば当たり前である。

パソコン以前は、「一台のマシンを一人が占有する」ということは通常考えられなかったのである。理由はコンピューターがばか高かったからである。

アルテアはいくら貧弱なスペックでも、「自分の」コンピュータであったのである。何で他人が使うことを考えようぞ。。。
 

「パーソナル・コンピュータ」には「一人で独占できるコンピューター」という意味もあるのであった。
 
 

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 PDP-1 の時代以来、ハッカーの国の成功は Digital Equipment Corporation のミニコンピュータ PDP シリーズとともに歩んできた。DEC は商用的な対話型コンピュータとタイムシェアリングオペレーティングシステムを切り開いた。DEC のマシンは自由度が高く、パワーがあり、相対的に安価だったからである。多くの大学ではそれを購入した。

   安価なタイムシェアリングはハッカーの文化がそこで成長する母体となり、ARPANET の存続期間のほんんどは、 DEC マシンの初期のネットワークだった。これらのうちで最も重要なものは 1967年に始めてリリースされた PDP-10 であった。PDP-10 は 15 年ほどハッカーの国の御用達マシンとして残った。TOPS-10 (そのマシンに対する DEC のオペレーティングシステム)と MACRO-10(そのアセンブラ)は多くのスラングや伝説のなかで郷愁のある好まれたマシンとしてまだ記憶にある。
 

(「ハッカーの国小史」)

 

PDP-10と出会ったビル・ゲイツは最初は、ベーシックでゲームを書くのに熱中するという少年らしいことをしているのである(当時13歳である)が、だんだんとハッカー化していくのであった。

これまた「パソコン創世記」である。
 
 
 

 この年の秋、コンピューターの使用時間を切り売りするビジネスを目指してシアトルに設立されたCCC社はポール・アレンとビル・ゲイツのコンピューター熱をいっそうあおり、彼らに技を磨く絶好の機会を提供することになった。
 
 レイクサイドスクールがタイムシェアリングのサービスを買っていることを聞きつけたCCCは、この学校への売り込みに成功した。
 
 CCCのPDP―10には面白そうなプログラムがたくさん詰まっていることを発見した彼らは、システム中をしらみつぶしにあたり、使用権のないプログラムに手を出した。通常の操作では触れることのできないデータのところまで忍び込み、ときにはシステムを使用不能の状態に陥らせた。
 
 バグと呼ばれるプログラムの誤りや、予想していない操作、誤った使い方などによって、コンピューターはしばしばクラッシュと呼ばれる使用不能状態に追い込まれる。
 
 PDP―10のシステムには、こうした脇の甘さやバグが数多く残されていた。
 
 いったんコンピューターがクラッシュしてしまえば、料金を払ってまともな使い方をしているユーザーも、システムを利用できなくなった。
 
 少年たちの熱中ぶりに手を焼いたCCCは、もともと弱みを残しているPDP―10のシステムを徹底的に洗いなおすために、逆に彼らを利用することを考えた。CCCはPDP―10の購入に際して、システムソフトウエアのバグを継続的に発見しているあいだは代金の支払いを猶予するという契約をDECと結んでいた。夕方を過ぎてからと週末、少年たちはCCCで好きなだけコンピューターを使う代わり、どんな操作を行ったときにシステムがクラッシュするか、詳細に記録することを求められた。少年たちは好きなだけコンピューターを使ってよいという夢のようなチャンスをとらえて、PDP―10にのめりこんだ。彼らは若さの特権を十二分に発揮して貪欲にシステムに関する知識をたくわえ、目覚ましい勢いで短期間にプログラミングの力を養った。
 
 

 

プログラミングの力がつくと、彼らは企業の給与計算ソフトを書いたりしてバイトしだすのである。小生意気な高校生であることよ、である。しかもビル・ゲイツはこの雑記の著者と同年生まれなのである。小生の方が年上なのである。生意気なビルよ、であ〜る。
 
 
 

 一九七二年の秋には、ポール・アレンが地元シアトルのワシントン州立大学に進んで、コンピューター科学を専攻した。プログラミングの力をビジネスに生かせないものかと考えていたアレンは、高校在学中のゲイツを誘って道路の交通量に関するデータの解析を看板にかかげて、トラフォデータ社を設立した。
 道路に仕掛けられた測定装置の吐き出すデータを解析し、これにもとづいて信号の切り換え時間の最適化などに関するレポートを作るビジネスを目指した二人は、この年の四月にインテルが発表していた8008に目をつけた。
 データ処理のためのまともなコンピューターはとても手に入らないが、マイクロコンピューターの8008なら三六〇ドルで買えた。
 ボーイング社のエンジニアに依頼して、二人は8008を使った超小型コンピューターを作ってもらった。だがプログラミングに必要なキーボードも、書いたプログラムを手直しするための編集ソフトもないこのマシンでは、効率よくソフトウエアを書くことなどできない。
 そこでアレンは、大学のPDP―10を使って8008の働きをそっくりそのままシミュレートするプログラムを書いた。ゲイツはPDP―10の上に仮想的に再現された8008を使って、交通データ解析プログラムの開発に取り組んだ。PDP―10にはまともな端末装置がつながっており、エディターと呼ばれる編集ソフトもそろっていた。ここで仕上げたプログラムを手持ちの8008マシンに読み込ませ、実際の処理だけをマイクロコンピューターのシステムでやらせることにした。
 トラフォデータは低料金と迅速な処理を謳い文句に、地方自治体に売り込みを図った。一九七四年春に連邦政府がデータ解析を無料で請け負うようになるまでに、トラフォデータはおよそ二万ドルを売り上げた。
 

出た〜、インテル8008!
 

パーソナル・コンピューターは、CPUを使ったコンピュータである。
 

という定義は、CPUを使った「ワークステーション」をSun Microsystemsが出してから当てはまらなくなったようであるが、「パーソナル・コンピュータ」が誕生したその時には正しい定義であったようである。

前の「その1」でIBMの汎用機は真空管!と書いたが、それがトランジスターに置き換わり、トランジスターは集積回路となり。。。

というコンピュータの歴史は、電子回路部品の進化の歴史である。

ここら辺は、これまたNHKの(初代)「電子立国日本」シリーズに詳しいが、パソコンは、日本での電卓戦争が無かったら生まれなかったというと大げさであろうが、生まれるのがずいぶんと遅れたであろうし、インテルの今の隆盛はなかったであろうことは確実である。
 
 
 

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ということで今回は終わりじゃ、熊さんや。
 

成り行き上、インテルCPUの歴史まで次回することになってしもうたのう。。。。
 

ま、次回にはアルテアも登場するであろうよ。。。。。
 
 

んじゃ、また。。。
 
 





 
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