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65 2000年9月7日

DEC PDP-10(その1)
 
 

熊さん:ご隠居さん、今日はチトお伺いしてえことが。。

ご隠居:何かのう?

熊さん:そのうちご隠居さんが得意そうに教えてくれるだろうと思って黙ってたんですがね、あの重〜い表紙、あれ何なんです?

ご隠居:はて・・・・重い表紙とな・・・・

熊さん:第六代目の表紙、ってやつですな。
 
 


 

PDP-10 1967年9月

第2世代の36ビットコンピュータPDP-10 はTOPS-10と同時に出荷、世界初の商業用タイムシェアリングシステムとして成功。
(http://digital.compaq.co.jp/history/comp/index_txt.html)
 

PDP-10(1971年),大型のシステムで約2億円ほどした.その後DECsystem10/20となり,
世界中の人工知能研究の分野, 第5世代コンピュータ開発などで用いられた.
(http://digital.compaq.co.jp/history/pdpvax/1a.html)


 
 

ご隠居:ほうほう、こいつか。DECのPDP-10じゃ。AltoはGUIがらみで有名じゃがのう。DECは今はもうコンパックに吸収されておる。寂しいのう。儂が買った一番高いパソコンはDECのHighNoteUltraじゃった。これまた型落ち展示品で20万じゃった。いまじゃあ、もう10万を越えるパソコンは高こうて買えんのう。。。ということはノートは買えんということで寂しいのう。。。ここはダブルスタンダードで・・・・

熊さん:ご隠居!

ご隠居:は、熊さん、何じゃ?

熊さん:ハイノートウルトラの話でも10万越えるパソコンが買えないという話でもなくて〜、PDP-10ってコンピュータの話を聞きに来たんですぜ。
 

ご隠居:そうじゃった。そうじゃった。というても儂も詳しくはないのでのう、引用大会になりそうじゃが、まずその前に、熊さんはコンピュータの歴史はどれくらい知っておるかのう?

熊さん:世界最初のコンピューターはENIACでしょ。国防省が弾道の軌跡を計算するとかで設計したとかいう。

ご隠居:よく知っているのう。それから?

熊さん:商用のコンピュータとなれば、IBMでしょ。長きIBM帝国の足下を揺るがしたのが、かのマッキントッシュで。。。

ご隠居:チト違うぞ、熊さん。

熊さん:へ?どこが?

ご隠居:長きIBM帝国の足下を揺るがしたのは、AppleIIに代表されるパソコン群じゃ。

1975年1月のアルテアがパソコンの元祖じゃな。ここでの「パソコン」の意味は「個人で所有できるお値段のコンピューター」ということじゃ。このアルテアはキットでのう。「わたしは自分のコンピューターを持っている!そいつは動く!」という以外、あまり意味のないマニア向けのものじゃった。AppleIも同じようなもんじゃ。

最初期のパソコンは「コンピューターおたくの為のオモチャ」じゃな。
 

1977年6月、にAppleIIが発売開始じゃ。ウォズニアックはやっぱり天才じゃったようじゃ。けどそれは技術屋の評価で一般人が買おうかな?となるとやはり実用性もいるな。

そしてビジカルクという表計算ソフトが出現したわけじゃ。1-2-3もエクセルもこれなしには存在しない記念碑的なソフトじゃで。。。

これでパソコンが、「個人で使える実用的なコンピュータ」になるわけじゃ。
 

1979年5月に、NECのPC-9801の前身のPC-8001が発表される。(出荷は9月)PCというとIBMマシンのことを指すらしいが、NECの方が早いのじゃ!知っておったかのう?

1981年8月にIBMのPCが発表。

1982年10月にNECのPC-9801(初代)発表。

1984年1月にMacintoshの発表じゃ。

IBMとしてはじゃな、今回取り上げるDECに廉価コンピューターでシェアを奪われておるうちに、今度は超廉価、個人でも買えるようなパソコンが出現したわけじゃな。

「マニア用のおもちゃ」の時には馬鹿にしてたんじゃろうが、「ビジネスマシーン」としても使えるようになってからお尻に火がついたんじゃろな。ばたばたとIBM PCを開発したそうじゃ。

と、こういう時間軸になっておる。
 

儂もIBMの汎用マシンのイメージが書物だけでは掴みにくくてよく分かっとらんのじゃが、フロアー一面つまり、建物の1階なら1階を全部占有した大物だったらしい。

と言っても、IBMのコンピューターも、1946年、初めて生産ラインを使って作られたIBM603計算機というコンピュータは真空管じゃ!
名前をちょくちょく聞く「システム360」というマシンは1964年じゃ。

何が言いたいかというと、1946年のIBM603から、元祖パソコンのアルテア登場まで29年の歴史があるわけじゃな。それを「IBMの汎用マシン」と一言で終わらせるには無理がある、ということじゃ。

熊さん:ご隠居〜。話はDECのPDP-10ですぜ〜。

ご隠居:そうじゃった。そうじゃった。

IBM帝国の全盛期、コンピュータに参入したいと思っても誰も金を貸さなかったそうじゃ。それでデジタル・エクイップメント社(DEC)は最初、「モジュール」を売り出すわけじゃ。今で言うと、メモリを手始めに周辺機器を売り、会社に信用が出来てから本体(コンピュータ)を販売という路線じゃな。

1957年8月DEC設立。苦節3年、1960年11月に、PDP-1を発売、じゃ。何でも当時週百万ドルという相場に対して12万ドルという価格設定だったそうな。

と、どうなるかというとじゃな、それまではコンピューターというと国家機関とか大企業ぐらいしか買えなかったのが、大学とかでも手が出る値段になった、ということじゃ。

で、じゃ、このDECのPDPシリーズのすごさはじゃな。。。まあ、聞いて驚くな。。。じゃない、驚け! 現在のコンピューター技術のお父さんなんじゃな。
 
 


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最初はUnixじゃ。
 

出典はLinux入れたら、HDに入っていた「ハッカーの国小史」という奴じゃ。ネット上でも読めるので、興味を引かれた方は訪れるといいじゃろう。ちょっと翻訳が読みづらいがボランティアの訳じゃ。文句がある方は自分で訳すといいじゃろう。

全文を読みたい人は、http://www.linux.or.jp/JF/JFdocs/history.html ですじゃ。
 
 
 


 PDP-1 の時代以来、ハッカーの国の成功は Digital Equipment Corporation のミニコンピュータ PDP シリーズとともに歩んできた。DEC は商用的な対話型コンピュータとタイムシェアリングオペレーティングシステムを切り開いた。DEC のマシンは自由度が高く、パワーがあり、相対的に安価だったからである。多くの大学ではそれを購入した。

   安価なタイムシェアリングはハッカーの文化がそこで成長する母体となり、ARPANET の存続期間のほんんどは、 DEC マシンの初期のネットワークだった。これらのうちで最も重要なものは 1967年に始めてリリースされた PDP-10 であった。PDP-10 は 15 年ほどハッカーの国の御用達マシンとして残った。TOPS-10 (そのマシンに対する DEC のオペレーティングシステム)と MACRO-10(そのアセンブラ)は多くのスラングや伝説のなかで郷愁のある好まれたマシンとしてまだ記憶にある。
 

PDP-10 は 15 年ほどハッカーの国の御用達マシンとして残った。
 

んだそうじゃ。15年じゃと? にわかに信じられない寿命であるが、そう書いてあるんだから仕方ない。

熊さん:PDP-10って何でしたっけ?

ご隠居:く・く・熊!!!!!!!!おまえが聞きにきたんじゃないか!!!!表紙を飾った馬鹿でかい画像のマシンじゃああ!!!!!!!!(はあはあ、ぜいぜい)こ・この無礼者!

おい、熊!

熊さん:へえ。

ご隠居:ARPANETは知っておるか?

熊さん:?

ご隠居:インターネットの元になったコンピュータ・ネットワークじゃ。
 

PDP-10はインターネットの草創期を支えたマシンである。
 
 

PDPとは直接関係ないが、ゼロックスのパロアルト研究所は有名じゃな。
 
 


  ハッカー文化のもう一つの重要な節点は XEROX PARC、すなわち、有名なPalo Alto Research Center だった。1970 年代の始めから1980 年代にかけての 10 年以上、PARC はハードウェアの基礎作りと驚くほどの量の新しいソフトウェアを生み出した。現代的なマウスや windows そしてソフトウェアインターフェースのアイコンの形がそこで作り出された。PARC はレーザプリンタやローカルエリアのネットワークも生み出した。さらに、D マシンの PARC シリーズは 1980 年代のパワフルな個人用パソコンを10 年も先取りしていた。しかし不運にもこのような予言者たちは自分の会社では評価されなかった。その結果、PARC は誰かのためにすばらしいアイディアを開発するところであるという説明が標準的なジョークになってしまった。ハッカーの国での彼らの勢力は大きくなった。

「DマシンのPARC(Palo Alto Reserch Center)シリーズ」というのはAltoのことじゃろうな。

世間的には、アルトのGUIしか話題にならないような気もするが、レーザープリンタもイーサネット(上で「ローカルエリアのネットワーク」と言われているもの)もここ、パルアルト研究所由来じゃ。
 

アルトとPDPとは別に関係ないはず、と思っていると〜:
 
 

 
 DECでPDP―8を設計したエドソン・デ・カストロは、同社を離れてデータジェネラルを設立し、一二ビット構成のPDP―8を一六ビット化してノバを開発した。パネルに安っぽいトグルスイッチとランプを並べたデザインは、アルテアのルーツを思わせるそっけない作りだったが、ノバは当時としてはきわめて速かった。低価格という要素も加わって、このマシンは大きな成功を収めた。アルトのハードウエアの開発にあたって、パロアルト研究所のエンジニアはノバのCPUの命令セットにもとづき、これを大幅に強化する道を選んだ。
「パソコン創世記」p.263

と、アルトの「CPUの命令セット」はPDPの「孫」であった〜。ま、アルトの評価は「ソフト」であって「ハード」じゃないから、あまり意味無いかも知れんがのう。。。。
 
 
 


   一方、 ニュージャージー( New Jersey)の郊外では、1969 年からやがてはPDP-10 の伝統に取って代わることになる何事かが進んでいた。ARPANET が誕生した年は、ベル研の Ken Thompson が UNIX を創り出した年でもあった。

  Thompson は ITS と共通の祖先を持つ Multics と呼ばれた タイムシェアリング(時分割処理) OS の開発事業に参加していた。Multics はオペレーティングシステムの複雑な部分を内部に隠し、ユーザや大多数のプログラマに対して見えなくするための基礎実験のためのものであった。このアイディアの結果、Multics を外から操作する(プログラムの作成も)のがもっと簡単になり、プログラミング以外のより重要な仕事をもっとたくさんこなせるようになった。

  ベル研は、Multics が役に立たたないもてあましものの兆候をあらわし始めた時、そのプロジェクトから撤退した(そのシステムはのちに Honeywell によって商用的に売られたが成功はしなかった)。Ken Thompson は Multics の環境に未練を感じていたので、そのアイディアと彼自身のアイディアを合わせたものを、リサイクル部品で作った DEC PDP-7 で実現する企てをはじめた。

 

やっと、UNIXの登場じゃ。
 

PDP-7はUNIXを産んだマシンである
 

なお、「部屋の片隅に放置されていたマシン」みたいな表現をどこかの本で読んだ記憶がありますが、どうも「部屋の一面を占拠していたマシン」みたいです。それほど小さなマシンではないはず・・・・
 
 
 


   初期の UNIX 文化で役立ったマシンは PDP-11 とその系列にある VAX であった。しかし、 UNIX は高い移植性を持っていたので、すべての ARPANET につながっているマシンならどんなものでも、基本的な変更をしなくても動いた。

ということで、インターネットの基本はUNIXの技術が支えているが、その発展の初期段階でのメインマシーンはDECのPDPでありVAXであったのである。
 
 


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  しかし第3の流れはまだなかった。1975年 にはじめて個人用コンピュータが売られた。Apple は 1977年に基礎を固め、その年から信じられない速度で前進した。小型コンピュータの可能性が明らかになり、もうひとつ別の有望な若いハッカーたちをまだひきつけていなかった。彼らの言語は BASIC であり、あまりに原始的だったので、PDP-10 党と UNIX ファンの両方ともがそれを軽蔑するにも足らないものだと考えた。

さて、パソコンである。1975年1月のアルテアである。

が、今回はここら辺までにして、後は次回のお楽しみにしようかのう。
 

けど、熊さんや、ちょっと「複雑な気分」にならんかのう?
 

まあ、出典が「ハッカーの国小史」じゃから。。。あ、ここでのハッカーとは、言葉の本来の意味、つまりコンピューターに詳しくて他の人の尊敬を得る人のことじゃ。

で、そういった人は、プログラマーじゃ。そしてC言語なんぞの達人な訳じゃな。そういう人らじゃけん、

彼らの言語は BASIC であり、あまりに原始的だったので、PDP-10 党と UNIX ファンの両方ともがそれを軽蔑するにも足らないものだと考えた


のも当然かも知れん。このページで、正月特番でセンター試験のベーシックを取り上げたが、センター試験レベルのベーシックでもちょっと難しかったら儂には分けが分からん。それが「あまりにも原始的で軽蔑するにも足らないもの」なんじゃそうじゃ。。。。。
 

話は変わるが、パソコンが「簡単・難しい」「使いやすい・使いにくい」というがのう、判断基準が各人で違うのに、その結論だけでどうのこうのと言っても話がかみ合わない、と思うのう。

BASICにしても、私は使っていないが、初期のNECの98なら、主流はBASICじゃったそうじゃ。
 

当時は

ソフトは自分で作るもの
じゃったそうな。。。

マックな人に98のBASICとか言っても興味が持てんじゃろうから、アラン・ケイさんじゃ。伝説のアルトの設計者じゃ。
 
 
 


 この講演でケイが強調していたポイントの一つが、自分に必要な道具はユーザー自身が書くべきだという自立主義だった。「人はツールのユーザーであるだけでなく、ツールの作り手でもある」という理念は、パロアルト研究所から外部の世界に伝わらなかったと指摘するケイは、ソフトウエア産業の隆盛を見た今でもなお、「カリフォルニア(アップルコンピュータ、筆者注)やワシントン州(マイクロソフト、筆者注)に住んでいるプログラマーがあなた方の個別の要求を先回りしてくみ取っておくことなどできるはずはなく、エンドユーザーが自分自身のツールを作れるようにしておかなければならない」と強調する。
「パソコン創世記」p.28

 

正論じゃ。。
 

問題は、自分の技術のなさじゃ。。。。。
 

熊さん:ご隠居〜〜。パソコン使う人は「プログラマー」になれってんですかい? それが正論なんですかい? じゃあ圧倒的多数の「普通の人」はパソコンなんか使うな、と。。。
 

ご隠居:熊さんや。熊さんのiMacにはAppleScriptがあるじゃろ? AppleScriptはC言語よりゃ100倍も簡単なはずじゃ。。。

熊さん:自慢じゃないが、AppleScriptも使いこなせない自信がありますぜ、ご隠居。
 

ご隠居:いや、儂もAppleScriptは難しそうじゃし、さわっておらんがのう。。。

儂が言いたいのは、「気持ち」じゃ。
 
 

自分に必要な道具はユーザー自身が書くべきだという自立主義


は儂でも無理じゃ。でも、
 
 

 
「何々がしたい」という考えそのものがなく、メーカーが消費者に提案したものを受け入れるだけ
って言うか、まあ、パソコンの使い方があまりにも「受け身」じゃないかい? って気がするこのごろではありますなあ〜。
 

ってことで、今回は終わりです。盛んに引用した、富田倫生「パソコン創世記」はTBSブリタニカ2500円也。注文すれば入手できそうです。ネット上でも読めます。富田さんは何でも「青空文庫」の主催者だそうで、自分の「パソコン創世記」もネットに上げています。(ネット上の「パソコン創世記」は旺文社版とブリタニカ版の合本のようです)

青空文庫はhttp://www.aozora.gr.jp/です。

http://www.aozora.gr.jp/cards/gopc.htmlがパソコン創世記直行。

ですが、450ページを越える本をパソコンで読む根性は私にはありません〜。しかし引用は便利〜。テキストエディタの「検索」で結構楽に該当個所を見つけられました。

ではでは。。。

あ、17インチのモニター、最近昇天なされました。合掌。
 
 













ちょっと、時期おくれなアニメーションですぅ。。。。。

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