さ み だ れ 雑 記 | 50 | 2000年4月9日 |
フクダさんのページの「研究シリーズ」を読んでいると、わたくしが大昔に書いた文章を思い出してしまうのであった。
一種、渾身の文章ではあった。私の原点であろう。
その元気はいまの私にはないが、その元気の源は溜まったストレスであったので、それを思うと今のストレスが少ない状態の方がましなのであろう。
まあ、「雑記」の愛好家にのみ読んでいただきたい文章である。8年以上昔の文章なので多少恥ずかしさとか、我ながら「ちょっと違うんでない?」とか、「ここ**の影響が感じられてイヤだ」とかあるんであるが、いまの私には書けない文章であるのも確かである。
ま、読んでくれなくてもいいんである。。。(う〜、屈折・・・そんじゃ発表すんなよな〜)
時代背景に少し触れておくと、バブルははじけたが不況でもない時代である。私の会社は、社員100名程度の学習塾である。私はそこで高校生に英語を教えている。
その会社が、1992年度より週休2日になるという昔々の頃である。1991年まで週休は1日であった。1日に2コマの授業があった。それを週休2日になるから1日3コマの授業にするという話でった。
私は「そんなんヤダ!」と思い、古株の社員に配布した文章がこれである。
で〜、ま、読んで欲しいのは「思想的背景」の部分です。「会社に対する文句」の部分は適当に流して読んで下さい。
ということで、ほぼ原文のままですが、予備知識がないと理解不能な部分とか削除して、原文の90パーセント程度になってます。
それでも長いし、原文は、えんえんと改行のない文章がつづいて、これはブラウザの<行間ゼロ>では読みにくくて仕方ないので、バンバン改行入れました。あと最初からブラウザなら色文字も使いそうだが、もとはサンヨーのワープロですから、白黒のまま、としました。
んじゃ、読み終わったあと、また会いましょう。
第一部:思想的背景。 ◎ 戦後の「経済成長」に対する呪咀。 吉永小百合さんの「キューポラのある街」って私好きなんです。昭和37年の作品らしいから、私の小学生の1年頃なんですけど、私の小さな頃ってまだ「貧乏」があったんです。「キューポラのある街」には、お金がなくて修学旅行に行けないとか、学校の体育の時間でのトレーナーかなんかが買えない子とか出てきます。 いまではお目にかかれないような「貧乏」です。映画の登場人物はひたむきに、貧乏にもめげすに、明日を信じて生きています。(だから、この映画って下手をすれば鼻持ちならない偽善的な映画になってしまうんですが、それを救っているのが吉永小百合さんですね・・・) もちろん「貧乏」から抜けでる方法って「しっかり働く」ってことです。で、日本人しっかり働きます。そういった勤勉な日本人たちが、戦後の高度成長を支え、今日の日本の繁栄を作り出してきたわけです。でも、そうやって出来た日本の繁栄って結局何だったんでしょうか? バブル華やかなりし頃、「はやく不景気になれ」ってわたしは思っていました。ちょうど「3K」とかいう言葉がではじめた頃です。「きつい」「きたない」「きけん」な仕事を好きこのんでやる人間もいないとは思いますが、わたしたちは、仕事に貴賎の別はないと教えられたのではなかったでしょうか? それが何ということでしょう。日本人は「おいしい」仕事ばっかについて、3Kは、「外国人労働者」という、第2級人種にまかせておけばいいというのでしょうか? 不況になって、街に失業者があふれればいい。仕事を「きれい」な仕事と「汚い」仕事にわけて、汚いやつは「外国人労働者」というよそ者に押しつけておけばいい、なんて「人の道」に反している。ちょっとやそっと不況になったからってそれがどうしたっていうんでしょう?少なくとも今の日本って、誇りに思えるような日本じゃない。私、「キューポラの街」のような貧乏な日本の方が好きです。 別に外国人労働者問題だけじゃないです。なんかぜんたい今の日本って、
になっただけっていう感じがしてならない。 成金の1番の嫌らしさは、「自分が好きでもないのに、その良さが分かっているわけでもないのに、高価なものを買って他人に見せびらかしている」ってとこですね。
話がすこしずれましたけど、戦後の復興を支え、高度成長を続け、オイルショックを乗り切って、一生懸命働いて、成金になって、謙虚さをなくし、過労死を増やし、けなげさをなくした、「豊かな日本」は、貿易黒字で世界から総スカンをくらい、湾岸戦争でお金を出しても感謝されず、ソビエトからは、北方領土を餌に金をせびられ(るだろうどうせ)、おフランスのクレッソン女史から、(半分は当っていると思う)嫌味を言われるだけなのでしょうか? 金持ちになって何かいいことあるの?本当に、 何でみんな、そんなに働くのだろう?っていうのが、わたしのこのところず〜っとの疑問です。ほんとうに、そんなに働いてどうするんだろう? ◎ 「豊かな」日本と「仕事大好きおじさん」
現代日本の空虚さ、って「貧乏から抜け出したい」って考えて、「豊かになりたい」って考えて、頑張って「競争競争」って働いてきただけ。「豊かさ」って何なのかを考えない。 で、生まれたのは成金と、「ストレス発散文化」。 「競争社会」で溜まったストレスを、カラオケなり、パチンコなり、ゴルフなり、酒飲むなりして、発散して、「あ〜すっきりした」ってまた「競争社会」に帰っていくのね。阿呆ちゃう? っていうのが私の意見ですね。なんで「競争社会」そのものをもっとストレスの溜らない社会に変えて行こうとは考えないんだろう? って私なんかは考えてしまいますね。 なんで、もっとゆとりをもって仕事をしようとはしないんだろう? こんなこというと、すぐ反論されるとは思うんです。「仕事」して「お金」をかせがなきゃ生きていけない。「Kさんは独身だからいいけど、私みたいに妻子もちは・・・」とか。でもこれが理屈になっていないというのは、たとえば、妻子もちは「もっと家族を大切にして、もっと一緒にいる時間を増やしたいから、会社よりも家庭を優先したい」と言ったっていいんです。わたしは、貧乏の方が性にあっているからお金いらない、って言ってるだけで、独身だって金遣いの荒い人はお金欲しいって言うでしょう。 これは実際Sさんから言われたんだけど、まさか、Sさんが、仕事はしたくないけど、妻子を養うために義務感で「いやいや」仕事しているとは到底思えない。Sさんは「このままではじりびんになって会社がやっていけないのは目に見えている」とかも言ったけど、Sさんが「会社を潰さないために」という「後向き」の発想で仕事をこなしてるわけじゃないでしょう? Sさんがそんな理由を持ち出してくるのは、「会社を大きくするのが楽しいから」「ばりばり仕事をして充実感を持ちたいから」などという「個人的な理由」では「理由」にならないと思ったから、「一般的に通りやすい理由」を持ち出してきただけでしょう? わたしの独断ですけど、誤解があった。それは、仕事をするモーレツ社員は、実は自分たちが「好きで仕事をしているのだ」ということに気が付かなかった。あの人たちは、「豊かになりたい」でも「お金が欲しい」でも「出世したい」でも「会社を大きくしたい」でもなんでもない、ただ「仕事が好きで好きでしかたがない」からやっていただけなのであった。 一見目的らしく見える、「金」「出世」「会社を大きくする」とかは、実際のところ、「他の人から見ても分かる判断基準」でしかなかった。それらはただ、彼等に「達成感」「満足感」を与えてくれる「ものさし」でしかなかった。彼等の目的は、「仕事をすること」にあった。 「不幸」とは、彼等が自分が「仕事がしたいからする」という「仕事大好きおじさん」だということに気が付かなかった、気付けなかったこと。だろうな。 あれ、やっぱり「サバイバル・ゲーム」だと思う。業績上げたり、昇進したり、会社が発展するのが「楽しかった」んだろうと思う。(もちろん会社が実際、左前になったり、その人の能力に問題があったり、あるいは被害妄想傾向の強い人には、「ゲーム」じゃなくなって、深刻な破産するかどうかの問題ではあっただろうけれども・・・) けど、「仕事大好きおじさん」たちには、「楽しいから」仕事をしているなんて自覚がなかった。「やりがいがあるから」ってのが最大限の譲歩で、それ以上の「おもしろいから」「たのしいから」って言える人っていなかった。そんな理由って「不謹慎」だった。(今でも多分そうなんだろうなあ・・・) そんな、真面目な「仕事いっぽんやり」のおじさんたちの、持ち出してきた理由が、「妻子を養う」だとか「会社発展」とかの「大義名分」だった。 会社が潰れたらどうするんだ」とかね・・・。それを言われた方は、
とまでは、言えなかった。そこまで言い切るほど「豊か」ではなかった。 でも、わたし言いますよ。もう私個人としてはもう十分「お金」はあるもの。次に欲しいのは「時間」であり、「ゆとり」だもの。それに、
多くの方々が、「Kは何をいい気になって、自分の人生観をうだうだと書き続けているのだろう?」と不可解の念をお持ちになっているんじゃないかと思います。 これは、あくまで、わたしの個人的なもので、これをもって、他の人を説得するというようなものではありません。みなさんはみなさんの十人十色の考え方をしていると思います。別に他の人の人生観が間違っていて、わたしのが正しいことを主張するものではありません。 しかし、やっぱりどうも、「思想的対立」みたいですね。別に会社人間VS個人主義人間との喧嘩をしかけるつもりはないんですが、問題は、「思想的対立の存在に気が付いていない人達が多すぎる」んじゃないかってことですね。 もうそろそろ日本も価値の多様化に対応してもいいんじゃないんでしょうか? その程度の豊かさって日本はもう持っているんじゃないか、その程度の近代化・個人主義はもう認めてもいいんじゃないか?って私は思うんですけど、まだだめなんでしょうか? ベルリンの壁は崩壊し、ソビエト共産党は解体し、今世紀もあと8年ちょいしか残っていないのに・・・。(破天荒な文章だ・・・) 来年度の週休2日制/3コマ制に対する根本の不満ってここらへんにあります。 結局、 1:週休2日にしなければ、社員が集まらない。
以外のことが、感じられないんです。 「週休2日になったからといって楽をするつもりはない」
「楽にならない」のなら、そもそも何の為の週休2日制なんでしょう? 「求人広告用の週休2日」でしかない。
楽にならないのなら何の為の週休2日なんでしょう?
なんで「仕事大好きおじさん」のペースで物事全部が進んでいかなきゃならないんでしょうか? これが「思想的対立」です。 ◎ 復習。 これまでの日本はみんな一生懸命働いてきました。そして一応は「豊かな日本」になりました。その日本に対してわたしなんかは、不満たらたらで、「貧しい日本」が懐かしいとか言っているわけですけど・・・。(貧しさの中には未来がある。豊かさの中には老後がある・・・。) けど、一応豊かになってしまった。それなのに・・・。 「仕事大好きおじさん」は、無自覚ですが、「仕事が好きで好きでしかたないから仕事している」「趣味で仕事をしている」わけです。だから、あの人たちは、どんどん仕事続けます。あの人たちは、仕事が好きでやってんですから・・・。 わたしは、「生きるために仕事をしている」のですね。「仕事をするために生きている」わけじゃないわけです。 冒頭に述べた「キューポラのある街」の貧乏なら、これは、贅沢を言っているわけにはいきません。生きるためには、しゃにむに働かなければなりません。そしてじっと手を見たりするかもしれません。けど、ある程度の生活が出来るようになると、贅沢を言い出しますね。「休みをもっと」とか「ゆとりのある仕事をしたい」とかね・・・。 もう、わたし「会社のため」とか「生き残るため」とか「妻子をやしなうため」とかいう「大義名分」のもとで、「仕事大好きおじさん」たちがやっている「サバイバル・ゲーム」に付き合う気になれないっていうのが、正直な気分ですね。 そういっていいぐらいの「豊かさ」を日本はもう持ってしまったんじゃないんでしょうか? その程度の「贅沢」ができない日本なのでしょうか? みんな恐いから勇気がないんでしょうか? こんなに働かなくてもいいはずだとか思っていながら、「競争・競争」でやってきた癖が抜け切れずに、自分だけ競争から抜けるわけにはいかないって思っているんでしょうか? わたしには、どうも、「こんなこと考えている人間もいるのか!」ってびっくりされそうな気もする・・・。私のような人間はまだまだ少数派だから、今のところ無視してもいいと判断するんなら、それは別にかまわないんです。これ別に「冷静」に言ってます。けど、どうも、このような「思想的対立」が存在するのだということ自体、気が付いていない人が多いかんじがする・・・。 でも、実際週休2日にして、今の水揚げを維持して、しかもベースアップもできるわけないと言われるかもしれませんが、
そんな発想する人間って私だけなんでしょうか? 6日働く人は6日分の給料を貰う。5日働く人は5日分の給料を貰う。それが悪い理由はわたしには全く思いつかない。(日本が個人主義を許さない村社会だからでしょうか?)
日本は一応「豊かな国」になった。「贅沢」できる国になった。そして、何を贅沢と思うかというのは個人個人で違うわけです。金の掛かる贅沢をしたい人はお金が欲しいからその人達には6日働いて稼いで貰い、「時間という贅沢」が欲しい人には、5日分の給料を与える。それでいいんじゃないでしょうか?
にどうしてなれないでしょうか?
に何故なれないんでしょう?
うちの会社に限らず、週休2日制って、日本全国、実質は、「若い社員のごっけんをとるために、中年社員に皴寄せがいくシステム」なのでしょうか? あーあ、なんちゅう日本じゃ。 ま、そろそろ第一部を終わりましょう。第一部は「前置き」だったんです。これはわたしの「思想的」反対理由です。まとめます:
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とまあ、これが「第一部」で、「第二部」で具体的な話に入るのであるが、それがこの2倍ほどあるという、ま〜当時はストレスの固まりだったのね〜という文章です、はい。
フクダさんの、<おじさん>の研究の流れでいうと、<オジン>という軽蔑語ができたころ、<おじさん>のメッキがはがれてきた頃でしょうか?
と書いてしまったが、<オジン>って言葉、いつ頃できたんでしょう?<ギャル>という言葉と同時代ぐらいの感じがするんですが〜。記憶が曖昧だ〜。
う〜ん・・・。
ふんじゃまた。。。(ちょちょ切れだ〜)