K's Korner


二村定一研究
 

はじめに

このページは二村定一のファン向けのものです。二村定一って誰?って言う人は、お帰り下さい。

我ながら喧嘩売ってるような書き出しですね。

岡田則夫(「レココレ」99年8月p.109)によると、

二村定一は明治33年6月13日、山口県下関市に生まれる。本名・林貞一。大阪の薬学校をでてから音楽への道に入ったという変わり種。大正末期、浅草オペラが終演しつつあった頃、根岸歌劇団に入ってオペラ役者になり活躍。その頃からニッポノホンにお伽歌劇、ジャズをたくさん入れている。戦後、エノケンの劇団に復帰したが、昭和23年9月12日に病死した。
付け加えると、「君恋し」「アラビアの歌」「洒落男」を歌った「ジャズ」歌手です。

これで興味を惹かれなかった方は、ご退場願いま〜す。

ということで邪魔者はいなくなったし、さ、マニアの道をひたすらに・・・・。なんですが、本当いうと、わたしマニアでも何でもないんですよね〜。自分でSP盤集めないとマニアとは言えないゼ。
 

主要参考文献:

新版 日本流行歌史 上 (社会思想社 1994):「流行歌上」と略記
細川周平 日本の芸能100年 (「ミュージック・マガジン」連載):「マガジン」と略記
岡田則夫 続・蒐集奇談 (「レコード・コレクターズ」連載):「レココレ」と略記
 
 

第1章:お伽歌劇
 

お伽歌劇とは何か?岡田の文(「マガジン」90年12月)をよく読んでも分からないのだが、どうも色々な形態があったようである。大人が子供の為に歌うものらしいが、「児童オペラ」ともあり、子供が歌うものもあったらしい。劇場で上演されるものもあれば、SP盤で発売されて、それを手本にして「学校における唱歌、遊戯の課外教授、家庭における晩餐後の遊戯として」試演されることもあったらしい。お伽歌劇の初期の代表作といわれる、北村季晴の、桃太郎をモチーフにした「ドンブラコ」(1912年)は、まず歌舞伎座で演奏され、翌年5枚組のSPになり、14年には、なんと、宝塚歌劇団の歴史的第1回公演の演目に選ばれているそうである。う〜む。
 

佐々紅華

作曲家。細川によると(「マガジン」90年12月)、本名佐々一郎。1886年(明治19年)東京の谷中に生まれる。東京音楽学校に合格したが、父の勧めで、蔵前高等工業学校工業図案科へ進学する。1910(明治43年)日本蓄音器商会(ニッポノホン)に入社し、広告デザインを担当する。また自社の長唄のレコードから採譜し出版する。1913年、日蓄広告部長が独立し、東京蓄音器株式会社を設立したのを機に、退職し作曲を本業とするようになる。
独立した佐々はまず、お伽歌劇で活躍する。その

「茶目子の一日」は、お伽歌劇全体のハイライトで、子供のころ茶目子を好きだった人々が、数年前、全国的な会を作って懐かしんでいるほどだ。西倉喜代治の非常に創意に富んだアニメも残っている。(略)また、ハリウッド製のグロリア・ジョーイ主演の映画に『茶目子の恋』『茶目子の悪戯』(ともに1921年輸入)という邦題をつけているのも、人気の余波だろう。(略)紅華のお伽歌劇は当時の中流家庭の平均的な子供の生活を活写している。茶目子はライオン歯磨きで歯を磨き、朝食は卵のお汁、葡萄豆、たくあん、お茶づけで、彼女は納豆が嫌い。晩の活動写真では大正の録音ではチャップリン、昭和になるとチャンバラを見ている。(細川・同上)
そして茶目子シリーズのSPの中に、我が二村定一の名前も載る。

「茶目子の一年・暑中見舞いの巻 運動会の巻」 井上起久子、二村定一(ニッポノホン16227)である。

また、岡田によると(「レココレ」99年8月)、昭和4年4月、「童謡唱歌 茶目子の一日」(作詞作曲・佐々紅華 歌・平井英子 台詞・高井ルビー、二村定一 伴奏・日本ビクター管弦楽団 50618AB)が子供達に大いに歓迎されたそうである。聴きたい!

なお、藤原カムイが「茶目子の一日」を漫画化している。チャンバラを見ているから、昭和バージョンであろう。う〜む。
 
 

第2章:浅草オペラ
 

「恋はやさしい野辺の花よ」とか「ベアトリ姐ちゃん」がこの頃、と思っていたら、浅草オペラ以前の曲だった(といっても浅草オペラ全盛時代にも歌われ続けたと思うけど)。

浅草オペラの開幕は1917年(大正6年)2月1日、常磐座で初演された『女軍出征』、これが当たり、その八ヶ月後常設劇場として日本館が開場。佐々紅華作の『カフェーの夜』は大当たりして、劇中歌の「コロッケの唄」「おてくさん」が大流行したそうな。「コロッケの唄」など私の子供時代でも歌われていたぞ。かくの如く一世風靡するが、関東大震災で壊滅。(「流行歌上p.57-59)

と、ここまで書いて、自分が持っているCDをチェックしたら、あれま「おてくさん」もってた。(「恋し懐かしはやり唄」コロムビアCOCF-15131-8)(幸町図書館にあるでよ。何を隠そう私がリクエストして入れて貰ったCD8枚組)

それによると、大正3年(1914)の作品である。う〜む。どうなってるんだ?

このあたり情報が錯綜する。細川によると、「『カフェーの夜』は益田太郎冠者作詞・作曲の大ヒット「おてくさん」「コロッケーの唄」を含んでいたため、話題を呼び、観客は長蛇の列を組み、場内はファンの歓声でセリフも聞き取れなかった」となる。「流行歌上」の記述とは、鶏と卵が逆である。

「恋し懐かし」の「コロッケの唄」の解説によると。「建築技師の太田某が益田太郎冠者に、結婚したところ毎日がコロッケで、とこぼした。この話を聞いた益田は、たちどころにこの歌を作ったという。それから二年後の大正八年六月にレコードが出て、翌年にかけて流行した(倉田)」とある。(なお、「歌謡曲上」によると、上の「建築技師の太田某」は「美術学校を出て日本画を勉強し、印刷屋になっていた青年」となっている。ここでも情報が錯綜している。建築技師と印刷屋が同一人物?)

私は「恋し〜」を正しいと判断する。「おてくさん」は「カフェーの夜」以前のヒット曲。「コロッケの唄」は「カフェー」のヒット曲。そしてどちらの曲もメロディーは外国曲とあるが、「おてくさん」の方は、数曲の寄せ集めである。しゃべくりと替え歌で男女が言い合いと求愛をするオペレッタ。一番長く歌われるメロディーは、なんとフニクニ・フニクラ。

「おてくさん」の作詞者は、台湾精糖副社長。「おてくさん」を作詞し、三井物産の宴会に出すと大受け。そこで浅草・日本館で幕間に試演すると、予想以上に客が喜ぶので、自分が男役、日本橋の芸者の朝居丸子をおてくさんにしてレコードにすると大当たりとなった、そうである。

 と、書いた後、岡田が「コロッケの唄」について書いているのを見つけた(「レココレ」98年4月p.111-2)。それによると、「最初『ドッチャダンネ』の歌だったが、『カフェーの夜』の劇中歌として歌われるようになってさらに広まった」そうである。

ところで「カフェーの夜」のおてくさんを演じたのは天野喜久代。その台詞に次のような物がある(細川による)

ミスター木佐野(きざの)、木佐野さん。あなたが今召し上がっておいでになる、その黄金色の液体のために、あなたの脳味噌の内に、まだ麻酔されていない一部分があるとするならば、あなたはあなた自身のおすがたが、いかに喜劇役者のそれのごとくであるかということを、発見せずにはおられないと思いますがネエ
本当に「カフェーの夜」って流行したのだろうか???

ともかく我らが二村定一は、このような浅草オペラの世界に大正末に入っていくのである。
 

第3章:ジャズ歌手
 

情報は錯綜する。しかし、すぐに誤りを指摘できるものもある。

橋本治「恋の花詞集」p.56。

昭和二年に大手のレコード会社が出来て、「俺達が流行を作るんだ!」とばかりに流行歌は生産されて行きます。『アラビアの唄』はそうなる寸前の時期に弱小レコード会社から発売されたもので、それがラジオから流れてヒットして、その後改めて大手から発売されるという、今のインディーズのはしりみたいなことをやってますが、歴史っていうのは、昔から大した変わり方をしていないんでしょう。
彼が「弱小レコード会社」と言ったのは日本蓄音器商会。佐々紅華が就職した会社である。「インディーズのはしり」では全くない。日本で最初のレコード会社。老舗中の老舗である。

1907年(明治40)10月31日、日本蓄音機製造株式会社設立。同時に販売部門としてホーン個人名義の日米蓄音器機商会が設立。これがまもなく株式会社組織の日本蓄音器商会になる。国産の円盤を発売するのは1909年(明治42年)ごろである。(「流行歌上」p.45)

そして昭和3年1月18日、日本蓄音器商会を母体として、日本コロムビアが設立。それに先立つ昭和2年9月13日、日本ビクターが設立されている。これが橋本のいう大手であるが・・・。

さて、話は、ラジオである。

1925年(大正14年)に、JOAKが本放送を始めたとき、ジャズの放送をしなければならなくなって、日響(日本交響楽団)の内職組が<東京ブロードキャスターズ>と名乗って放送した。選曲と編曲は紙恭輔であった。このバンドには天野喜久代と二村定一の二人のヴォーカルがついたが、これが日本のジャズ・シンガーの草分けになった。(「流行歌上」p.116)
紙恭輔とは、細川によると(「マガジン」91年12月p.152)
「日本のポール・ホワイトマン」と呼ばれたのが、紙恭輔(1902年生まれ)だった。彼は東大法学部在学中から日本交響楽団、日露交歓オーケストラなどでベースを弾き、ジャズ・サックス奏者として法政のラッカサン・ジャズ・バンドや慶応のレッド・アンド・ブルー・ジャズ・バンドにも加わった。コロムビアで二村定一の「青空」「アラビアの唄」のバックもつとめ、同社のジャズ・バンドの指揮もした。
そして、岡田によると(「レココレ」99年6月)、
大正末期から外国の大衆音楽や享楽的な映画がどんどん入ってきて、ダンスホールは賑わい、カフェーではジャズが鳴り響いた。日本人のジャズのレコードも二村定一、天野喜久代らによって「テル・ミー」「ヴァレンシア」などが吹き込まれ、先端的な若者を中心に歓迎されていた。
そうであるから、ラジオのバンドがそのまま吹き込みをしたと考えていいのではないか?それが大正末から行われていた。その流れが昭和になって、ブレイクしたのが「アラビアの唄」である、と。

さて、ダイセル工業の「流行歌史大系」の付属年表によると、「アメリカ留学から帰った堀内敬三がNHKから頼まれてジャズバンドの演奏の中に入れて放送する目的で訳し、2年12月に「青空」、3年3月に「アラビアの唄」が放送され」たそうである。

とすると、最初、紙恭輔の選曲・編曲で始まったジャズ番組があり、そこで流された曲がレコードになった。その番組は、多少の内容変更があったとしても、そのまま続き、その番組に堀内が加わったとみるのが自然であろう。「青空」「アラビアの唄」の成立年月日に関する情報も錯綜しているのだが、わたしの判断は以下のようである。

・ラジオで放送する。
・評判がよいのでレコーディングする。昭和3年3月19日。(情報はコロムビア「昭和の流行歌・上(COCA6151-70)」解説。)日蓄でレコード発売。5月
・日本ビクターで発売。10月
・日本コロムビアが日蓄盤再発。時期不明。10月ごろ。

なお、「アラビアの唄」の放送日は、「コロムビア」も岡田も(「レココレ」99年6月)、2月23日としている。なおラジオ局は、JOAK、NHK、東京放送局と表記がまちまちであるが、すべて同一のものの別名であるから同じ事である。

なお、情報が錯綜している例として次の文を読んでいただきたい。(「コロムビア」)

 このレコード(「アラビアの唄」)は、昭和二年秋、コロムビアの前身であるワシ印(日蓄)に吹き込まれたもので、わが国ジャズの歴史の一頁を飾る珍重すべきものです。
 訳詞した堀内敬三は、音楽評論家として又物知り博士として余りに有名です。暁星中学卒業後、アメリカに留学。あちらのジャズを身につけて帰国しました。
 彼が昭和二年の夏、楽譜出版社へ行くと、アメリカから輸入した「アラビヤの唄」「あお空」の楽譜が目についたので、日本語訳をつけて出版しました。それを、二村定一とレッド・エンド・ブリュー・オーケストラが吹き込んだのです。このジャズ・バンドは慶応大学の学生によって編成されたバンドで、吹き込みには、よその大学から応援に駆けつけたプレーヤーも加わり、後年ジャズ界で活躍した紙恭輔(サックス)、菊池滋弥(ピアノ)、坂井透(バンジョー)などが参加しています。
 その後、この唄は昭和3年2月23日。JOAKから二村が放送したり、ステージでうたったりして流行の波に乗り、さらに、ビクターから二村と井田一郎ジャズ・バンドのレコードが出る頃には、日本国中を風靡する勢いでした。
 ニッポノホンがコロムビア・レーベルに変わるとすぐ「あお空」と「アラビヤの唄」は同じカップリングで再発されました。(森)
長々と引用して疲れてしまったが、かくも日付が違うものか。コロムビアの設立が昭和3年1月だから、それなりに筋は通っているのだが、この解説を載せている解説書自体が、発売を3年5月にしてんだもんな〜。なお、コロムビア設立後もニッポノホン・レーベルは残ったので、別にコロムビア設立後にニッポノホン・レーベルの新譜が出ても矛盾はしません。また、坂井透(バンジョー)は、「洒落男」の訳者でもあります。
 

われらが二村定一は、かくして第一線の流行歌手になったのであった。
 

なお、「青空」のオリジナルは、"Pop Memories The 1920s (Rhino R2 71575 DRCI-1104)で聴ける。
My Blue Heaven by Gene Austin。1927年12月17日から28年3月17日までチャート1位。5百万枚を売ったそうな。上で引用した森の情報が正しいなら、昭和2年=1927年だから、堀内敬三は、ヒットしていない時から「青空」に目を付けていたことになる。オリジナルは、ずっとスローテンポで、口笛が効果的に使われている。堀内は、どうもオリジナルを聴かずに、楽譜から編曲してるのかもしれない。二村盤はご存じの通りのアップテンポ。(なお同じCDで、ディック・ミネが歌った「ラモーナ」のオリジナルが、これもGene Austinで聴けます)

あ、そっか! 

別に、オリジナルを聴いててもいいんだ! 結局、昭和初期、人々は浮かれたかったんだ!原曲のドリーミーなスローテンポじゃ浮かれないもんね。まだスローな曲に、うっとりするほど洋楽に慣れていなかったのかも。

「アラビヤの唄」のオリジナルは入手していません。Fred Fisher 作詞作曲、"Sing Me A Song Of Araby"何か情報をお持ちの方はぜひお知らせ下さい。
 蛇足ですが、「当時アメリカで大ヒットしてた「青空」と「アラビアの唄」」とか記述している本もありますが、「アラビアの唄」は本国では大ヒットはしていないと思います。
 

第4章:君恋し
 

ふたたび、佐々紅華に登場願おう。「コロムビア」の解説による(森)に語った本人の話である。

「君恋し」を作曲したのは浅草の清島町に住んでいた頃で、足踏オルガンを弾き乍ら曲を考えた。大正十一年だから震災の前年にあたる。出来上がった曲は二村定一に練習して貰って東京レコードに吹き込んだ。しかし会社では期待していないので、ポスターも作らなかった。その後、高井ルビーにワシ印で吹き込んで貰ったが、発売と同時に大震災が起きて、このレコードも駄目になってしまった。昭和になって、ジャズ・ソングで二村が人気歌手のトップに数えられてから再吹き込みすると忽ち全国的に大流行した(昭和四年一月)。二村が吹き込みする時、僕は時雨音羽さんに相談して、新しい歌詞を書いて貰った。しかし曲の盛り上がりの「君恋し」という箇所は歌詞を変えないで、そのまま使って欲しいと頼んでおいた。
幻の東京レコード盤「君恋し」が存在するらしいのである。長生きする楽しみが・・・。といっても聴かずに死ぬだろうなあ。日本のリイッシューの淋しい現状よ。「幻の逸品」や〜い。かな? それともネットで二村の未CD化曲のMP3がダウンロードできるなんて夢のような時代が・・・・。

なお、高井ルビーの芸名は、駆け出しの頃、大学生のパーティに招かれた時、指輪がないので小道具の指輪をはめていったら学生に「あっ、高いルビー」と言われたのにちなんだそうです。この人も浅草オペラの人。「茶目子の一日」で二村と一緒に台詞いれてるそうです。聴かずに死ねるか!

高井ルビー盤の「君恋し」はコロムビアのCDで聞けるがメロディーはまったく同じで、少しスローテンポ。伴奏も充分洋風だが、のんびりしている。それにくらべて二村盤は歌詞の内容に似つかぬにぎやかな伴奏。レーベルの写真を見ると、「フォックス・トロット」と読める。
 

第5章:ビクター盤CD曲目解説
 

音楽は聴けなくちゃ意味がないもんだから、これから、現在容易に入手できる。ビクターの「君恋し 二村定一 (VICL-
0327) 」の収録曲の解説を。時代順に。(日付は発売年月)
 

昭和3年10月・ストトン

細川周平によると(マガジン92年1月p.157)

井田一郎松竹バンドと二村定一が、28年(昭和3年)7月12日に「木曾節」「ストトン節」「安来節」「小原節」を録音した。井田と二村のコンビの録音はこれが最初で、同じ年の10月、ビクターに「青空」「アラビアの唄」を次に吹き込んでいる。
そうである。その中で「ストトン」がCDで聴ける。作者の添田さつきは、添田唖蝉坊の息子。本歌が大正の演歌とは思えない軽快なアレンジである。他のは「民謡」であるが、これらの「民謡」は大正時代に新発見あるいは新作されたもの。有名曲を現代的にアレンジして・・という発想であろうか?

昭和3年10月・青空・アラビアの唄

昭和3年12月・笑ひ薬

 作詞作曲・佐々紅華になっているが、曲はフォークダンスの「オクラホマ・ミキサー」。佐々の編曲のせいかバックバンドのせいか、日本的に響く。このころはカスタネットまで使われてたのね・・・。
 なお、笑いながら歌うというアイデアは、"Laughing Song"がネタかも知れない。「アメリカン・ミュージックの原点」(オーディブックAB71)で聴ける。

昭和4年3月・月は無情

 岡田によると、「井田一郎の編曲のフォックストロットの斬新なリズムで好評だった」そうである。オリジナルは演歌師、石田一松の歌った「昭和節」(ヒコーキ8297 ).。別名「月は無情」「新トコトン節」ともいい、岡田は二村盤を含めて5種リストアップしているから結構はやったのだろう。今聴くといまいち。

昭和4年1月・君恋し

昭和4年4月・神田小唄

 小唄となっているが、曲調は行進曲。当時としてはのりのりの曲だったのだろうなあ。リズムの単調さがかえって当時にはよかったりして。

昭和4年4月・となり横丁

 曲は、フニクニ・フニクラ。これも行進曲のノリだろう。しかし、この曲もいまだに甲子園の応援で生き続けている。すごい生命力のあるメロディーであることよ。細野晴臣版も好きだなあ、わたし。

昭和4年6月・黒い眸

 堀内敬三作詞作曲。天野喜久代が「黒い眸よいまいずこ」という題で歌っている。堀内敬三は訳詞では抜群のセンスを示すが、これはいまいち。

昭和4年7月・浪花小唄(道頓堀夜景)

 これも、小唄となっているが、曲調は行進曲。「東京行進曲」で当てたビクターが次は大阪だとばかり出したらしい。

昭和5年1月・洒落男

 オリジナルは聴いたことがない。情報持っている人はぜひお知らせ下さい。
 悲しいことに私もずっとエノケンの持ち歌とばかり思っていた。「君恋し」はフランク永井にとられるし、かわいそうな二村定一。
 なお、伴奏のアーネスト・カアイは山内雄喜によると

マンドリン、ウクレレ、スティール・ギター、ヴォーカルと何でも出来る器用なミュージシャンで、20世紀初頭のハワイで流行した”モダン”なダンス・バンドをガン・ポキパラやジョニー・ノーブルらと同様に結成した(25歳のとき)。1910年代にウクレレに関する本を2冊出版し作曲家としても"Across The Sea"などがあるが、ハワイではそれほど知名度が高くなかった。それというのも1906年にシアトルの博覧会に出演して以来、アメリカ本土、さらに1927年から 10年ほど日本をはじめアジア各地の巡業を長く続けたからであろう。ディスコグラフィを見ると、米国コロンビアにかなり早い時期に何曲もの録音を行っており、日本でもコロムビアとビクターで自身のスティール・ギター独奏などのほかカアイ・ジャズ・バンドとして歌手達の伴奏を多く手がけた。
「ハワイ音楽入門」(オーディブックAB08)。このCDで1曲聴けます。音楽は世界を回る。

昭和4年10月・金座金座

 何か印象に残らない曲。

昭和4年10月・都会交響曲

 作詞西条八十のへんなインテリ臭さが出た失敗作。佐々の曲も野暮ったい。佐々は「君恋し」だけが異様にモダン。「祇園小唄」(月はおぼろに東山〜)もこの人の曲だが、本来、日本調の体質の人でしょう。

昭和4年11月・モダン節

 「かえす笑顔も チョイト素敵よ テレビジョン」と一瞬録音年代を疑う一節があるが、「かえす笑顔」ということは、テレビジョンとはテレビ電話のことか?

昭和5年7月・乾杯の歌

 オリジナルは、Rudy Vallee & His Connecicut Yankees / Stein Sing (University Of Maine)。
1930年(昭和5年)2月10日録音。5月15日にチャート1位(10週)。ほぼリアルタイムのカバーである。
ルーディ・バレーは、メガフォンをもって歌ったという初期のクルーナー。"Pop Memories The 1930s" (Rhino R2 71576 DRCI-1104)で聴けます。よろしかったら個人アルバムもあります。Rudy Vallee (英 Pavillion PAST CD 7077)。明朗な好青年シンガーですね。
この曲も息が長い。ニュース23見ていたら、いまだに歌声喫茶で歌われていた。二村版とは歌詞が違っていたようだが。

昭和5年7月・ブラブラ・ソング

 ハワイアン。聴いたことがあるメロディーだと思うのだが思い出せない。そのうちわかるでしょう。佳品です。日本での最初期のハワイアンであることは間違いない。しかもバックが本場のアーネスト・カアイ・ジャズバンド。「ウクレレ・ベイビー」も聴いてみたい。

ということで、ざっと解説しましたが、ファンはもちろん買いです。しかし、ビクターはLPをそのままCD化してるだけ。CDならもっと曲追加できるじゃろうが!!だいたい懐メロは同時代人が死に絶えたら復刻される可能性はどんどん無くなるのだから・・。今回がラストチャンスで、もう二度と未CD化曲が日の目を見ることは無いかも・・・。ぐすっ。
 

第6章:ジャズ
 

難物の「ジャズ」について。

今時、アル・ジョルスンを知らない人の方が多い。けど、映画好きの人には最初のトーキー「ジャズ・シンガー」の人として、あるいはミュージカルの「アル・ジョルスン物語」で結構知られているようである。向こう物のCDはあきれるぐらい多い。しかし、今、アル・ジョルスンが、「ジャズ・シンガー」だと思っている人はいない。

二村定一の時代では、アル・ジョルスンがジャズ・シンガーだと思っていた人もいたかもしれない。しかしまだ「スイング・ジャズ」は生まれていない。スイングは30年代後半だそうだから、昭和15年以降である。

では昭和初期のジャズとは何だったのだろう?

もちろん、「ジャズ」とは「舶来音楽の総称」という説もたしかにある。ディック・ミネもジャズだけでなく、ハワイアン、ラテン、タンゴ、シャンソンまで歌っている。でも、ディック・ミネのジャズはジャズに聞こえる。ところが二村定一はジャズに聞こえないのである。二村定一をジャズ歌手と言っているジャズとはなんだろう? である。

細川周平によると(マガジン91年12月p.149)、ポール・ホワイトマンである。

昭和初期、ホワイトマンはレコードもよく売れ、「ジャズ王」の名が日本にも響いていた。彼の『ジャヅ』(1926年)という著作は2冊の翻訳が同時に出るほどよく読まれた。(田舎社刊の夏川太郎訳と大衆公論社の二村定一訳でどちらも1929年発行)。後者はそれ以前に出ていた別の人の訳にジャズ歌手が名義を貸しただけらしい。
こんなところにも、二村定一である。

現代のジャズの歴史本で、ポール・ホワイトマンを彼がジャズ王だと述べている物はないであろう。しかし、アル・ジョルスンのように、「ジャズではない!」と言い切っている本も多分ないのでは?と思う。それは、後に名をなすジャズメンが彼のバンドに在籍していたこともある。例えば、Bix Beiderbecke, Jimmy and Tommy Dorsey, Jac Teagarden そして、Bing Crosby, Horgy Carmichael も。

今ではジャズメンの在籍していた商業バンドみたいな評価のホワイトマンが「ジャヅ王」であったころのジャスということか。

ここら辺今興味があるんだがまだ深い話が出来ないのですんませんねえ。ちょちょ切れます。

ま。ジャズがまだジャヅでもあった時代の二村定一のレパートリーを分類すれば:

1.フォックス・トロット。「君恋し」「アラビアの唄」はレーベルにそう明記してある。「青空」。

2.行進曲。「乾杯の歌」「フニクニ・フニクラ」の洋物マーチ。「神田小唄」「浪花小唄」の和製マーチ。

3.浅草オペラ/ボードビル。「笑ひ草」「洒落男」

4.ハワイアン。「ブラブラ・ソング」

5.和製。どっちつかずの失敗作。

ぐらいでしょうか。「洋物はすべてジャズ」というならすべてジャズ。
狭い意味でのジャズが1.のフォックス・トロットで、これがあまりジャズに聞こえない、ということでしょう。

ところで、細川による、19225年(大正11年)4月10日付け「横浜貿易新報」によると(「マガジン」91年2月)、

現今社交ダンスとして何んな踊りが最も流行して居るかと云うと、ワンステップ、ホオクストロツプ、ウワルツ等が先ず一般に喜ばれて居るが中でもウワルツの方の型は稍々古い傾向にあるので前者と列べると人気が少し落ちる。ステップを踊るには行進曲調に良く調和して居るので大抵は行進曲に依って踊られて居る。トロップの方は踊る間のタイムがステップより多いので初心の人に好まれる。それに足の形格が非常に沢山あるのも又便利の一つである
のだそうだ。ホオクストロツプはフォックス・トロットfox trot、ウワルツはワルツの謂である。
それにしても「行進曲に依って踊られて居る」とは何の謂であるか?

ともあれ、1のフォックストロットと、2の行進曲は当時の感覚では、とても近い位置にいたらしい。なお、中村とうようによれば「東京行進曲」「丘を越えて」「青い山脈」は「ワン・ステップ調の歌」なんだそうである。おそるべしダンス・ミュージック。

ここらへん、これからのテーマだろうな。
 

追記:中村とうよう著『ポピュラー音楽の世紀』(岩波新書)によると

ジャズには、自前の音楽様式というものがなく、極端に言えば何かの音楽を演奏するためのテクニックやアイデアやフィーリングでしかないから、ヤドカリがほかの貝の抜け殻を借りなければ生きていけないのと同様に、ダンス音楽やブルースの曲の形を借りることでしか存在できない。(p.24)

レコードとして商品化され始めたのもようやく1971年のことで、それを買う人もジャズとしての価値をわかって買ったのかどうか、はなはだ怪しいものだ。当時のSPレコードには、どんなに優れたジャズ演奏であっても、フォックス・トロットといったダンス音楽としての種別が必ず表示されている。(p.24-5)

そうである。そして「フォックス・トロット」という表示のあるルイ・アームストロングの「ウエスト・エンド・ブルース」のオリジナルSP盤が掲げられている。

ということは二村定一の時代ではまだ「ジャズのフィーリング」がまだまだ薄いというだけのことなのだ、と考えればいいようです。(2000年3月16日記)
 
 

終章:エノケンと共に

二村定一は、その後、ヒットが無く、エノケンと一緒に舞台で活躍するようである。

その時代のエノケンのサウンドトラックに二村定一が入っているものがある。

「エノケンのキネマソング」(東芝EMI TOCT-8596)収録の

昭和11年作品の「エノケン十八番 どんぐり頓兵衛」からの4篇と、同年の「エノケンの千萬長者」からの3篇でエノケンと競演している。「千萬長者」では、「洒落男」「青空」の替え歌をもうエノケンが歌っている。昭和の喜劇王の脇でしか活躍できなかったのか、と思うと淋しい。

そんななかで、色川武大が『唄えば天国 ジャズソング』のなかで、小学二年生のころ、浅草で松竹座のエノケン一座の芝居を始めて見たときのことを書いている。

 出し物はほとんど覚えていない。ヤジキタ風の時代劇だったか。とにかく、プログラムを見てあの二村がという気持ちで一杯で、エノケンより二村の方ばかり見ていた。そうして私の期待に反せず、舞台の二村は充分に、自堕落で、充分に軽腰だった。(p39)
読んでほっとしますね。せめてもの二村へのはなむけでしょうか。(別にエノケン好きですけど・・・)


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付録:ディスコグラフィ
 

ビ:ビクターCD収曲。(ダイセル):「日本流行歌史大系」記載。

他にも資料に載っているが、年代を特定できなくて漏れている曲が数曲ある。資料にも載っていない曲もまだまだありそうである。ビクター以前は本文を参照のこと。
 
3年10月 ストトン 添田さつき 添田さつき 井田一郎 日本ビクター・ジャズバンド
3年10月 青空 George Whiting・訳詞:堀内敬三 Walter Donaldson 井田一郎 日本ビクター・ジャズバンド
3年10月 アラビアの唄 F. Fisher 訳詞:堀内敬三 F. Fisher   日本ビクター・ジャズバンド
3年12月 笑ひ薬 佐々紅華 佐々紅華 佐々紅華 日本ビクター管弦楽団
4年1月 君恋し 時雨音羽 佐々紅華 井田一郎 日本ビクター・ジャズバンド
4年1月 ヴォルガの舟歌 訳詞:門馬直衛 ロシア民謡 井田一郎 日本ビクター・ジャズバンド 君恋しのB面
4年2月 エスパニョール(Spanich Serenade) 訳詞:堀内敬三 Georges Bizet 井田一郎   昭和3年12月8日録音
「フロリダ・タンゴ」ビクターVICG-60176-7収録
4年3月 月は無情 松崎ただし・澁谷白渓 添田さつき 井田一郎 日本ビクター・ジャズバンド
4年4月 神田小唄 時雨音羽 佐々紅華 佐々紅華 日本ビクター・ジャズバンド
4年4月 君よさらば         神田小唄のB面
4年4月 となり横丁 時雨音羽 イタリア民謡(フニクニ・フニクラ) 井田一郎 日本ビクター・ジャズバンド
4年6月 黒い眸 堀内敬三 堀内敬三   日本ビクター・ジャズバンド ビ;コロムビアに天野喜代子盤あり
4年7月 浪花小唄(道頓堀夜景) 時雨音羽 佐々紅華 佐々紅華 日本ビクター・ジャズバンド ビ;B面は葭町(藤本)二三吉の同曲
4年10月 金座金座 時雨音羽 佐々紅華 佐々紅華 日本ビクター・ジャズバンド
4年10月 都会交響曲 西条八十 佐々紅華 佐々紅華 日本ビクター・ジャズバンド ビ;with青木晴子、B面は藤本二三吉
4年11月 モダン節 時雨音羽 佐々紅華 佐々紅華 日本ビクター管弦楽団
4年12月 峠の小道         ビクター 「不壊の白球」のB面(ダイセル)
5年1月 洒落男(ゲイ・キャバレロ) L.Klein-F.Crumit訳詞:板井透   井田一郎 アーネスト・カアイ・ジャズバンド
5年1月 ウクレレ・ベビー       アーネスト・カアイ・ジャズバンド 洒落男のB面
5年5月 銀座セレナーデ         表面は二三吉の同曲ビクター(ダイセル)
5年7月 乾杯の歌(Stein Song) E.A.Fenstad訳詞:村瀬好夫     アーネスト・カアイ・ジャズバンド
5年7月 ブラブラ・ソング 訳詞:市川一郎 不詳   アーネスト・カアイ・ジャズバンド
5年10月 スパニッシュ・セレナーデ 訳詞:不詳 ビゼー 井田一郎 日本ポリドール・ジャズバンド ポリドール(ダイセル)
5年10月 ラ・エスパニョラ         スパニッシュ・セレナーデのB面With淡谷のり子(ダイセル)
5年12月 恋人 中村彼路子 不詳 井田一郎 日本ポリドール・ジャズバンド with淡谷のり子(ダイセル)
6年6月 エロ草紙 コロムビア文芸部 井田一郎 井田一郎 コロムビア・ジャズバンド with榎本健一、コロムビア(ダイセル)
6年6月 わたしのラバさん         with天野喜久代(ダイセル)
7年4月 モン・パパ         榎本健一/二村定一、コロムビアA面は「のんきな大将」榎本健一・中村是好(ダイセル)
7年12月 百万円 内山惣一郎 井田一郎 井田一郎 リーガル・オーケストラ (ダイセル)
7年12月 相当なもんだね         with榎本健一(ダイセル)
10年4月 嫁取り婿取り 戸張もりお 細川潤一 細川潤一 キング・ジャズバンド with丸山和歌子(ダイセル)
10年4月 頑張主義さ         (ダイセル)
10年5月 民謡六大学 鶴谷真太郎   長津弥 テイチク・オーケストラ 榎本健一・二村定一、B面も同曲(ダイセル)